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教皇フランシスコ 2025年1月15日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール 教皇フランシスコ 2025年1月15日の一般謁見 バチカン・パウロ6世ホール  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「児童労働を絶やすためにできること」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、1月15日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、1月15日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われた。 

 謁見中のカテケーシスで、教皇は前回に引き続き、子どもたちの保護について考えながら、特に児童労働の問題を取り上げられた。 

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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 今回も子どもたちについて話そう。前回、わたしたちは、イエスが子どもたちを守り、受け入れ、愛することの重要性を繰り返し説かれていることに注目した。

 それでも、いまだ今日、世界では、成人としての義務を果たすための最低年齢にさえ達していないにも関わらず、何億人もの未成年者が働くことを余儀なくされている。そして、その子どもたちの多くはきわめて危険な労働にさらされている。

 売春やポルノ、強制結婚のための人身取引の犠牲になっている子どもたちについては言うまでもない。未成年者への虐待は、いかなる性質のものであっても、卑劣で非道な行為である。それは社会の傷や犯罪というだけではない。神の掟に対する非常に重い背きである。誰一人、子どもが虐待されることがあってはならない。ただ一つのケースたりともあってはならない。

 そのためにも、人々の良心を目覚めさせ、虐待を受けた児童や少年少女に寄り添い、具体的に連帯する必要がある。同時に、子どもたちが安心して成長できる安全な場所と機会を与えるべく努力する人々の間に、信頼と協力関係を築くべきである。

 広がる貧困、家族支援のための社会システムの欠如、今日増す疎外感に加え、失業と不安定な労働形態が、子どもたちに最も高い犠牲を払わせる要因となっている。

 社会の格差と倫理の低下に蝕まれた大都市で、麻薬取引やあらゆる違法行為にたずさわる子どもたちがいる。これらの犠牲となった子どもたちをいったいどれだけ見てきたことだろう。子どもたちは自分自身と、自らの尊厳、人間性を損なうのみならず、悲劇的なことに、彼らが他の同年代の子らの「刺客」になるように巻き込まれることがある。それにも関わらず、道端で、小教区の周辺で、これらの迷えるいのちを目にしても、わたしたちはつい目をそらしがちである。

 たとえば、同じ町内や集合住宅で生活する二人の子どもがいたとする。そのうちの一人が貧しい家庭に生まれたという理由で、この二人に対照的な進路や運命をたどらせる社会的な不公正を認めるのは辛いことである。一人は夢を見ることができ、もう一人はそれを断念せざるを得ないならば、これは人間的、社会的に認めがたい断絶である。

 しかし、イエスはわたしたち皆が、自由で幸せであることを望んでおられる。すべての人をご自身の息子や娘のように愛されるイエスは、もっとも小さな者たちを心のすべての優しさをもって愛される。それゆえに、イエスは、わたしたちに立ち止まり、声なき人々、学校に行けなかった人々の苦しみに耳を傾けるよう願われる。搾取、特に未成年者への搾取と闘うことは、社会全体のより良い未来構築のために進むべき道である。

 早く大人になることを余儀なくされた子どもたちに対し、見て見ぬふりをしないすべての人に感謝したい。イエスのこの言葉を常に思い出そう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)。

 ここで自問しよう。わたしに何ができるだろうか。第一に、児童労働を絶やすためには、それに加担してはならないと認識すべきである。それはどういう時か。たとえば、わたしたちが児童労働を用いた製品を購入する場合である。その食べ物や服の裏側で、学校に行くかわりに働かされている、搾取された子どもたちの存在を知りながら、どうやって食べ、着ることができるだろうか。自分たちが購入する物についての認識は、加担者とならないための最初の行動である。

 個人では多くのことはできない、と言われるかもしれない。しかし、一人ひとりが一滴となり、他のたくさんの一滴と合わされば、海にもなれる。ただし、教会をはじめとする組織や、企業も、各自の責任を思い起こすべきである。児童労働を用いない、許可しない企業に投資を移すことで、変化をもたらせるかもしれない。すでに多くの国や国際機関が児童労働に対抗するための法律や指示を実施しているが、もっとできることがあるはずだ。ジャーナリストたちにも、自らの役割を果たすよう励ましたい。彼らは、児童労働の問題への認識を普及させ、解決策の追求を助けることができるだろう。

 主のぶどう畑の喜びに満ちた働き手であったコルカタの聖テレサは、最も貧しく、忘れられた子どもたちの母であった。マザー・テレサは、優しく配慮ある眼差しをもって、見えない子どもたちの存在、奴隷状態に置かれたあまりにも多くの子どもたちの存在を、わたしたちに示してくれる。なぜなら、最も弱い立場の人たちの幸福が、皆の平和を築くからである。

 では、マザー・テレサと共に、子どもたちに声を与えよう。
「わたしが遊べる安全な場所をください。
 愛することができる人の微笑みをください。
 より良い世界の希望としての、
 子どもでいられる権利をください。
 人間として育つことができますように。
 あなたを頼りにしていいですか。」
 (コルカタの聖テレサ)

 

 

15 1月 2025, 10:19

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