検索

教皇一般謁見(写真資料) 教皇一般謁見(写真資料)  (Vatican Media)

父親と二人の息子のたとえを考察、教皇一般謁見カテケーシス

教皇フランシスコの、4月16日(水)の一般謁見のカテケーシスのテキストが、バチカン広報局より発表された。

 教皇フランシスコが、4月16日(水)の一般謁見のために準備したカテケーシスのテキストが、バチカン広報局より発表された。

 この日は、「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスの「第2章 イエスの生涯・たとえ」として、ルカ福音書15章の「父親と二人の息子」のたとえ、(「放蕩息子」のたとえ)を取り上げられた。

 カテケーシスの要旨は次のとおり。

**********

 福音書の何人かの登場人物とイエスとの出会いを観想した後、今回からは、いくつかの「たとえ」について考えたい。ご存知のように、これらのたとえは、日常の現実からイメージや状況を取り上げて語るストーリーである。それゆえに、これらのたとえは、わたしたちの生き方に触れ、わたしたちに刺激を与える。そして、そのストーリーの中で自分はどこにいるのか、自分の立場をはっきりさせるように求めるのである。

 では、誰もが小さな頃から覚えているであろう、最も有名なたとえから始めよう。それは、父親と二人の息子のたとえである(ルカ15,1-3.11-32)。このたとえの中に、わたしたちはイエスの福音の中心、すなわち神のいつくしみを見出すことができる。

 福音記者ルカは、イエスがこのたとえを話されたのは、イエスが罪人たちと食事を一緒にしていると不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちのためであったと記している。それゆえ、このたとえは、自分が道に迷っているにも関わらず、その自覚がないままに他者を裁く人々に向けられていると言えるかもしれない。

 福音は、わたしたちに希望のメッセージをもたらすことを望んでいる。それは、わたしたちがどこで、いかなる形で迷っても、神は常にわたしたちを探しに来てくださると伝えているからである。

 わたしたちが道に迷ったのは、草を食むために道から外れた、あるいは疲れて遅れてしまった羊のようなものかもしれない。あるいは、地面に落ちて見つからない、あるいは誰かにどこかに置かれたまま忘れられた硬貨のようなものかもしれない。それとも、わたしたちはこのたとえの父親の二人の息子たちのようなものかもしれない。なぜなら下の息子は、要求だらけのように思われた関係に縛られるのに疲れたという意味で、一方、兄は内心のプライドと恨みのために、家にいるだけでは満足できなかったという意味で、それぞれ道に迷っていたからである。

 愛は常に努力を要するものである。相手と向き合いたいならば、常に何かを犠牲にしなければならない。しかし、たとえに登場する下の息子は、幼児期や少年期によくあるように、自分のことだけを考えていた。しかし実際には、わたしたちの周りにはこうした大人がたくさんいる。彼らはそのエゴイズムゆえに、一つの関係を維持することができない。自分自身を見つけるのだと思い込み、実際には自分を見失ってしまう。なぜなら、わたしたちは誰かのために生きる時に、真に生きるからである。

 この下の息子は、われわれ皆と同じように、愛情に飢え、愛されることを望んでいる。しかし、愛とは貴重な賜物であり、大切に扱う必要がある。それなのに、彼はその愛を浪費し、自分を売り渡し、尊重しなかった。飢饉が起き、誰からも顧みられなくなって、彼はやっとそれに気づいた。ここで危険なことは、こうした時にわたしたちが愛情に飢え、最初に現れた「主人」について行ってしまうことである。

 こうした経験は、わたしたちの中に、奴隷としての関係しか築けないという誤った思い込みを生んでしまう。そして、あたかも罪をつぐなう必要があるかのように、あるいは真の愛など存在しないかのように感じてしまうのである。実際、下の息子は奈落に落ちた時、愛情のかけらを拾い集めるために、父の家に帰ろうと考えた。

 わたしたちを本当に大切に思ってくれる人だけが、愛に対するこうした誤った見方からわれわれを解き放ってくれる。神との関係の中で、わたしたちはまさにこれを経験する。偉大な画家レンブラントは、有名な作品の中で、放蕩息子の帰還を素晴らしい表現をもって描いている。胸を打つのは特に二つの点である。まず最初に、この若者の頭は悔い改めた者のように剃られているが、それはまるで子どもの頭のようにも見える。なぜならこの息子は新たに生まれつつあるからである。そして、もう一つの点は、父親の手である。一つは男性的な、もう一つは女性的なその手は、ゆるしの抱擁における力と優しさを表現している。

 しかし、イエスがこのたとえを語った相手を象徴しているのは、長男の方である。この息子はいつも父親と一緒に家にいたにも関わらず、その心は父から離れていた。この息子もまた家を出たかったかもしれない。だが、彼は恐れや義務感から、その関係の中に留まっていた。しかし、自分の意に反してそれに適応しようとすると、心に怒りが生じ、その怒りは遅かれ早かれ爆発することになる。

 逆説的なことに、最後に家の外に残りかねないのは、長男の方である。なぜなら、彼は父の喜びを分かち合おうとしないからである。

 父親は長男のためにも会いに出て行った。父親は彼を叱ったり、義務を思い出させることはしない。ただ長男に自分の愛を感じて欲しかったのである。父親は彼に家に入るようにと招き、扉を開けておく。この扉はわたしたちのためにもいつも開かれている。事実、これこそが希望の理由である。わたしたちが望みを持てるのは、御父がわたしたちを待ち、遠くから見守り、扉をいつも開けておいてくださることを知っているからである。

 この素晴らしいたとえの中で、自分はどこにいるのかを自問しよう。そして、わたしたちも家に帰る道を見つけられるように、父なる神に恵みを祈り求めよう。

 

16 4月 2025, 18:08

最新の謁見

すべて読む >