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神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画 神殿における少年イエス ドゥッチョ (1308-1311)画 

教皇「マリアとヨセフのように希望に満ちて主を捜しに行こう」

教皇フランシスコが、3月5日(水)の一般謁見で予定していたカテケーシスのテキストが、バチカン広報局より発表された。

 現在、ローマの病院に入院中の教皇フランシスコが、3月5日(水)の一般謁見のために予定していたカテケーシスのテキストが、バチカン広報局を通して発表された。

 「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐる、聖年のためのカテケーシスとして、この日は「I.イエスの幼少期」の考察の中から、「神殿で見出されたイエス」をテーマに取り上げている。

 カテケーシスの要旨は次のとおり。

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 イエスの幼少期を扱うこのカテケーシスの最後に、イエスが十二歳の時、両親に告げずに神殿内に留まり、心配した両親がイエスを捜し回り、三日の後に見つけた、というエピソードを取り上げよう。

 このエピソードは、マリアとイエスの間に交わされた非常に興味深いやり取りを示している。そして、それは決して容易ではなかった「イエスの母の歩み」を観想させるものである。実際、マリアはその長い霊的な歩みの中で、御子の神秘を次第に理解していった。

 マリアのこの歩みの様々な段階を振り返ってみよう。イエスを身ごもって間もなく、マリアはエリザベトを訪ね、小さなヨハネが生まれるまでの三ヶ月ほどそこに滞在した。そして、月が満ちた時、マリアは住民登録のためにヨセフとベツレヘムに行き、そこでイエスを産んだ。

 四十日後、彼らは幼子を神殿で捧げるためにエルサレムに上った。そして、毎年彼らは巡礼し、神殿に戻った。

 しかし、イエスがまだ小さい頃、ヘロデ王からイエスを守るために彼らは長い間エジプトに避難していた。彼らが再びナザレに戻って住んだのは、王が死んでからのことであった。

 やがてイエスは成人し、宣教を開始した。マリアはカナの結婚式に出席し、その主人公となった。そして、エルサレムへの最後の旅、イエスの受難と死まで、「離れたところから」イエスに付き添った。イエスの復活後、マリアは、弟子たちの母として、エルサレムに残り、聖霊降臨まで彼らの信仰を支えた。

 「御子の娘」、「御子の最初の弟子」となったマリアは、これらすべての歩みを通し、「希望の巡礼者」であった。マリアは、人類の希望であるイエスをこの世にもたらし、養い、育て、神のことばに従って自分を形作りながら、イエスに従った。

 ベネディクト16世が記すように、マリアは「神のことばを住まいとし、自由にこの神のことばの家を出入りすることができた。マリアは神のことばで語り、神のことばでものを考えた。[…] そこから、どれほどマリアの思いが神と一致し、どれほどマリアの意志が神のみ旨と一つになっていたかもわかる。神の言葉によって完全に満たされていたからこそ、マリアは受肉した神のことばの母となることができた」(回勅「神は愛」41)のである。しかし、このたぐいまれな神のことばとの交わりにあっても、マリアは「修行時代」の苦労を免れてはいない。

 毎年恒例のエルサレム巡礼の間に十二歳のイエスを見失った体験はマリアを驚かせ、イエスを見つけた時、ヨセフをも代弁して、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」(ルカ2,48)と言わせたほどであった。

 マリアとヨセフは、子を見失った親の苦しみを経験した。二人ともイエスが親類の道連れの中にいると信じていたが、一日中イエスを見なかったため、イエスを捜し始め、道を引き返した。神殿に戻ると、彼らは、つい先ほどまで保護すべき子どもに見えていたイエスが、突然成長したかのように、律法の学者たちと肩を並べ、聖書をめぐる議論に加わっているのを発見した。

 とがめる母を前に、イエスはすげなく答えた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2,49)。マリアとヨセフは理解できなかった。幼子となられた神の神秘は、彼らの知性を超えるものであった。両親は愛の翼の下にいとも大切なその子を守りたいと思っていた。これに対して、イエスは、御父に仕え、みことばに浸って生きる、御父の子としてのご自身の召命を生きたいと望んでおられたのである。

 ルカ福音書のイエスの幼少期の物語は、このように、イエスに対するヨセフの父性を思い起こさせるマリアの最後の言葉と、そして、この父性というものが、明白な優位性を認める天の御父にいかに由来しているかを認識させる、イエスの最初の言葉で終わっている。

 わたしたちもマリアとヨセフのように、希望に満ちて、主を捜しに行こう。主は、わたしたちの狭い考えに収まることを許さず、場所ではなく、優しい神の父性に対する愛に満ちた答え、すなわち子としての生活の中に見出されるお方である。

05 3月 2025, 15:32

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