「マリアへの告知」をテーマに、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、1月22日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで一般謁見を行われた。
前回と前々回の謁見で、子どもたちの保護、特に児童労働問題について話された教皇は、この日は聖年のための「わたしたちの希望、イエス・キリスト」を主題とするカテケーシスに戻られ、「マリアへの告知」をテーマに講話を行われた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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今日は聖年のためのカテケーシス、「わたしたちの希望、イエス・キリスト」を主題とする考察に戻ろう。
ルカは福音書の冒頭で、神殿の入口までのみならず、ヨセフと婚約し、まだ家族と暮らしているおとめマリアの簡素な家にももたらされる、神の御言葉の変容の力を示している。
神の偉大なお告げの使者、神の力をその名において意味するガブリエルは、旧約聖書で一度も言及されたことのない村、ナザレに遣わされた。当時ナザレはガリラヤの小さな村にすぎなかった。イスラエル郊外のガリラヤ地方は、異教徒たちとの境界にあり、異教徒たちとの接触がある地域であった。
まさにそのナザレに、天使はマリアの心を驚かせ揺さぶる、前代未聞の形と内容のメッセージをもたらした。
「あなたに平和があるように」という伝統的な挨拶の代わりに、ガブリエルはおとめマリアに「おめでとう」「喜びなさい」と呼びかける。「喜べ」という言葉は、聖なる歴史において親しみある呼びかけである。なぜなら、これは預言者たちがシオンの娘にメシアの到来を告げるときに使うものだからである。それは、捕囚が終わった民に対する神の喜びへの招きであり、主の生き生きとした働きと存在を感じさせるものである。
さらに、神はマリアを聖書の歴史上、それまで知られていない名前、ケカリトメネ、「神の恵みに満ちた者」という愛情のこもった名で呼ばれている。この名は、神の愛がマリアの心にすでに宿り、これからも宿り続けることを意味している。神は、マリアがいかに「恵みに満たされ」、それがいかに彼女を内的に彫り上げ、ご自身の傑作としたかを語られている。
この愛情あふれる呼び名は、神がマリアだけに与えられるものである。神はそのマリアを、「恐れることはない」と、すぐに安心させられる。全能の神、「できないことは何一つない」神(ルカ1,37)はマリアと共におられる。
ガブリエルはおとめマリアにその使命を告げ、彼女から生まれる子の王権とメシア性をめぐり、聖書の多くの記述をマリアの心に響かせ、それを古くからの預言の成就として示した。神の御言葉は、待望されたダビデにつながるメシアの母として、マリアを召された。そのメシアは、人間的、肉としての方法ではなく、神的、霊的な方法で王となる。その名は「イエス」、「神は救われる」という意味である。それは、救いをもたらすのは人ではなく、神だけであることを、すべての人に常に思い出させるものであった。
救い主の母となったことは、マリアを心の底から揺さぶった。知的なマリアは、様々な出来事を内面から読み取ることができた。自分に起きていることを理解し、識別しようとした。そして、マリアはその開かれた繊細な心の奥深くで、神に信頼するようにという招きを聞いた。
マリアの心には信頼の光が灯った。神に委ね、従い、自分を明け渡した。マリアは御言葉をその肉に受け、こうして、一人の女性、人間にこれまで託されたことのない、最大の使命に飛び込んだのである。マリアは自身を奉仕のために差し出した。それは、奴隷としてではなく、父なる神の協力者としてであった。カナでそうであったように、マリアは神の恵みの賜物をつかさどる尊厳と権威に満ちていた。
救世主の母、わたしたちの母であるマリアに、神の御言葉に耳を開き、それを受け入れ、守り、わたしたちの心を神がおいでになる聖櫃、人々を受け入れ希望を育てる家へと変容させることを学ぼう。